高齢市民が活躍するための社会技術研究会 講演会














































故滝沢恭子以遺歌集の編集後記より
平成29年12月29日
滝沢茂男

おばあちゃんのリハビリシステム継ぎたしと孫の言葉に夢叶えらる
 私は故滝沢恭子の詠んだ歌を集め遺歌集を発行しました。
 この歌集の題「夢かなえ」は、平成20年(孫の就職)「おばあちゃんのリハビリシステム継ぎたしと孫の言葉に夢叶えらる」の歌からとりました。
 
 故人は手法が自身に拠っていると自認していました。
 「自らが考案し一万通りを超える異なったやり方で行っていると断言し、実践していたリハビリは自分一人のものであるが孫には伝えたい」、との故人の気持ちを大切に受け止め、選びました。
 題は、平成18年(学会に)「長年の経験のもとに生れたるリハビリ技法にわが名付けらる」、平成12年(古稀過ぎて)「わが編みしリハビリシステム米国の学会発表許可さるるとう」平成15年1月(曼珠沙華)「学会に昇格したる研究会吾が編みだせしリハビリ方法」等の「リハビリ」ではなく選びました。
その理由は次のようです。

三十年リハビリ指導に勵み来しすべてを本に纏め残さん
 私は、超高齢社会の有様と今問題になっている私の属する団塊世代が起こす2025年問題を、拙著「団塊世代にパラダイムシフトを問う」に明らかにしたように、昭和46年から明確に認識していました。そして解決のために政治家を志すとともに、その解決を自らの使命として日々活動していました。そんな時にタキザワ式リハビリを認識したのです。

 故人は、自らのリハビリを個に帰するものと考えていました。これがシステムであると認識した私がシステムに纏めるため、情報の開示を求め、連日、六年という長期間にわたってお願いしましたが、聞き入れてもらえませんでした。
 議員もやめ、連日の日々激しくなる続く説得に、故父は煩がり説得が始まると散歩に出かけたものです。会合のつどの聞いていた県会議長の後継者という明言から、「県会議員になるまでの辛抱だ」と妻に話していました。
そして二名の後継議員を当選させていたこともあり、県会議長から後継指名があり、一旦は受諾したものの、このままでは情報開示が得られないと認め、県会議長後継を断りました。県会選挙のすぐ後に、協力が得られ病院長の許可を得て、すべてのリハビリカルテを私が入手し、分析しました。
そして平成六年本にまとめ、効果が得られるうえ、一万通りのやり方ではなく、簡単で実施しやすいシステムであることを明らかにしたのです。
 このようにシステムとしてのタキザワ式の確立には故人と私の間に葛藤がありました。平成八年(リハビリの本を)「 三十年リハビリ指導に勵み来しすべてを本に纏め残さん」はこのことです。(書名・「寝たきり老人を歩かせる」)


補助金を受けての歩行器開発に子は市長選出遅れとなる
 この本を出す準備を終え、超高齢社会における暮らしを展望して高齢者の自立生活可能な藤沢市の確立のため、また同時にそれまでPT(理学療法士)のみの研究会に医師の協力を得る、を目的の一つとして、市長選に立候補したのです。
 その経過は平成八年(市長選に)「補助金を受けての歩行器開発に子は市長選出遅れとなる」と詠われています。
母の考案した歩行器を基礎とした新たな歩行器開発で、東京大学医学部整形外科を中心に臨床試験を平成六年に実施し、その後その研究に参加したPTにより研究会を組織したのです。

 市長選では総合計画など市の整備計画が争点となりますが、当時の新聞記事によく示されていますが、私は超高齢社会における人々の生活を問いました。言い換えると落選覚悟で「時代」を相手に選挙戦を戦ったのです。
 私の責任で研究会参加者とリハビリの本を出版し、内容から高齢障害者自立の可能性を市長選で訴えたことにより、PTばかりでなく医師が中心になる学会を組織できました。


わが編みしリハビリシステム米国の学会発表許可さるるとう
 藤沢の木島医師が会長に就任するとともに、日本臨床整形外科学会の前理事長故金井史郎医学博士は「私たちが気付かなければいけなかった。」と述べられ、積極的に協力してくれました。藤沢市の機能訓練会で故人と職をともにし、実際の状況を承知していたのです。平成十二年(古稀過ぎて)「わが編みしリハビリシステム米国の学会発表許可さるるとう」となりました。
この選挙で、当時東京大学前リハビリテーション科教授(北里大学教授)故加倉井周一氏や、永くこの学会の会長を務めた国立障がい者リハビリテーション病院院長故木村哲彦教授の参加も可能になったのです。

 藤沢市の経てきた政治状況を見ると、私が政治家を続けていれば「かなりの活躍が出来た」と思っていますが、いまは「これで良かった」と考えています。
 私は「故人は実施していたリハビリをシステムではなく、一人のもの、孫のものにしておきたかった」と知っているので、悪かったのではないかと思っていました。

法人の資格を得たる研究会バイオフィリア学会として
 しかし、平成十八年(学会に)「法人の資格を得たる研究会バイオフィリア学会として」と詠んだ学会に所属している友人が、訃報に接し、「故人は世界の人々に貢献できる自分がしてきたリハビリ手法を息子に認められて幸せだ」と言ってくれました。
今日WHO(世界保健機構)は「障害」や「高齢化」を地球規模の課題に取り上げています。これらのことを相手に私は市長選を戦ったのです。

 今その先見性を受け入れられ、外国の多くの大学と共に手法の研究を実施しています。この頃ではWHOも私たちの学会研究会に参加するところまで来ました。今は人類に大きく貢献し、最後に「時代」との選挙に勝てるのではないかと考えています。
 また平成29年度厚生労働省老人保健健康増進等事業「自立に資する介護に関する調査研究事業」に協力し、これまでの厚労省関連団体の研究費や文部科学省の研究費による研究結果をまとめ報告しました。政策に反映される日を楽しみにしています。
 
WHOも参加、研究を通じて人類に貢献できる日が近づいている
 介護保険では寝たきりが最も経済的に手厚いサービスが受けられることから、今日まで歩けるようになる私たちのリハビリサービスは商品としての需要はありませんでした。
結果として私は研究のみ行っていることになりました。すなわち議員辞任以来無給で、研究費は国からの研究助成金で賄い、事務所の維持費などを故人の拠出に拠っていました。故人が倒れたのち事務所を自宅へ移し経費はすくなくなりましたが、この間(平成三年から)の支援が今日の成果につながっています。

 平成二十年の表題の歌はこうしたことをすべて克服し、故人として、息子たちの研究によりシステムとして確立されたその手法を孫に託すとした歌です。
 さらに自らの実施してきた事々が、学会の研究を通じて人類に貢献できる日が近づいています。
故滝沢恭子は多くの友人と交誼をもち、仕事も充実し、故夫の病の危機を乗り越え、家を建て、研究推進のエンジンになり、九十年の幸せな一生を送ることが出来ました。また療養のベッドでの生活でも、子・孫・ひ孫に囲まれ天寿を全うしました。
送る言葉として、夢がかなったを示す「夢かなえ」は誠にふさわしいものです。
「夢かなえ」をこの歌集の表題として、発行できたことに感謝します。